自分がADHDであることが発覚してから、「運動できない芸人」のかっこよさに気づいた
※この記事は「運動できない芸人」が発達障害だと決めつける記事ではありません。文中でたびたび説明をしていますが、誤解がないように、冒頭でも注意書きをしておきます。
テレビは見ない私だが、アメトーークは好きだ。
もともと、人が好きなものを語り合うのを聞くのが好きなのもある。
話がうまい芸人さんが、自分の知らない世界の面白さを語ってくれるというのも魅力だと思う。
過去の私は、「運動できない芸人」を見て、ゲラゲラ笑っていた。
しかし、自分がADHDだと発覚してから、心の底から笑えなくなった。
発達障害は、つまり脳が健常者と違う動きをするということだ。
厳密には、ドーパミンを受けとりそこねるといったほうが正しい言いかただ。
健常者と同じように暮らすうえでドーパミンが足りないという点は同じなので、雑な言い方ですませる。
発達障害にはさまざまなタイプがある。
運動が苦手なのも、極端に不器用なのも、発達障害の症状としてある。
発達性協調運動障害、DCDともよばれる症状だ。
専門家でもないので語るのも恐縮なのだが、やはりそれにも脳は関係する。
一説によると、走るのが苦手だったりする発達障害は、体の連動をささえるホルモンがうまく動かないらしい。
右手をあげながら左足をあげる、左手をあげながら右足をあげる、それらを素早く交互に行うというのは、緻密な脳の働きがあるがゆえに可能なことなのである。
そういった視点でみると、「運動できない芸人」を笑えなくなる。
彼らは単純に、運動ができる人の動きをまねしようとして、失敗しているというだけの話なのである。
念のため書いておくが、運動できない芸人が、発達障害だというわけでもない。
運動できない原因が、すべて発達障害に起因するわけではない。
なかには単純に体の動かし方が分からないという人もいる。
そして運動ができない人全員は、絶対にスポーツができないというわけでもない。
運動が苦手な人のなかには、これだけはできるというスポーツを極めて活躍する人もいる。
だからこそ「運動できない芸人」は、本当に運動ができないのだろうか、と思っています。
たとえばよき指導者に恵まれて、その人のあったスピードで成長を促してあげたら、もっとうまく体を動かせるようになったかもしれない、という考えを捨てられない。
そう思ってしまうほど、現代の体育の授業は多様性がない。
運動が苦手な人への救済処置がなく、ひたすらに苦手な人を置いていくような教育システムだ。
こういうことをうだうだと考えると、「運動できない芸人」は、「現代教育の敗北」として見えてしまう。
「運動できない芸人」はかっこいい
誤解がないように語るが、「運動できない芸人」が笑いにくくなったのは私の勝手だ。
「運動できない芸人」を笑うな、と主張することもしない。
彼らの芸人という生き方に敬意をしめすのであれば、ソレはソレ、コレはコレ、と割りきって笑うのが正しいのだろう。
つまり斜めにかまえて好き勝手に語っている私こそが、彼らを最もないがしろにしている人間というわけである。
「運動できない芸人」はかっこいい。
たぶん彼らは本当に運動が苦手だと同時に、笑ってもらうために、わざと体を大きく動かして失敗している。
もし運動ができないことを恥ずかしいと思っているのなら、おかしく見えないように小さく失敗する。
彼らは、自分がかっこ悪くみえることを承知で、人を笑わしている。
テレビの彼らの動きは、「運動ができない自分」を完全に受けいれたことを意味する。
弱点を強みにかえる、そこまでいかずともふっきれるというのは、発達障害者にとても必要な視点だと思う。
かっこ悪くても人に与えようとできる人は、かっこいい。