不注意優勢のADHDの私は、マニュアルを守ることはできるけど独自ルールは守れない
こんにちは、不注意優勢のADHDのアミメです。
今回は「なぜADHDがコミュニケーションでミスを起こしてしまうのか?」ということを、不注意優勢の私なりの視点で語りたいと思います。
私なりのADHD感は以下にまとめています。
物事をみても、感情や思考のゆれが起こりにくいので、危険を察知しにくいというのが私が常日頃から感じていることです。
この感情や思考のゆれというのが、実は日本ではとても重要視されています。
いわゆる「空気を読む」ですよね。
それが私は非常に下手です。
正確にいうと、「マニュアル通りの対応」はかなり得意です。
30年間日本でしつけられてきたので、学校で教えられてきたことはできます。
ただ本当にそれが「マニュアル通り」なんですよね。
ベースとなる人格が、日本で理想とされている人格と大きくズレているので、かなり強引に枠に収まるように思考を矯正してきました。
- むやみに人を怒ってはいけない
- 論理的に説明しないといけない
- 嫌なことがあっても我慢しないといけない
我慢に我慢をかさねて、なんとか基本の枠におさまるようになった。
自分でいうのもアレですが、第一印象はかなりいいし、人当たりもよい自信があります。
ただ、マニュアル外になるとめちゃくちゃパニくります。
ADHDのせいか知りませんが、私は人よりも感情が薄いです。危険を察知しにくいですし、他人の感情の機微も理解ができません。
「暴言をはかれて怒った」とか分かりやすいものなら共感できるのですが、嫉妬や劣等感といった感情はいまいち分かりません。
どうしても「他人は他人でしょ?」と思ってしまいます。
自分の感情は自分の問題と割りきっているので、他人にこうして欲しいと思うことも少ないです。
物欲もないので、自分のものを壊されても、あまり不快感を抱くことはありません。
こんな風なので、油断すると「まぁそういうこともあるよね」と守るべきルールを簡単に見落としてしまいます。
何度もルールを破って怒られてきたからこそ、「マニュアル絶対厳守」という思想が染みついていました。
それで問題は、マニュアル外の会社や個人のルールです。
大体そういうものって、劣等感や嫉妬などの不快感を抱かないために作られていることが多いんですよね。
それで私はその感情が分からないので、独自ルールがあることにさえ気づけません。
「教えられたら守るから先に言ってよ」と思うんですが、多くの日本人はその独自ルールを明かしません。
だってかっこ悪いから。
そういう嫉妬や劣等感をむき出しにしたらいけない、という考えが日本人には染みついている。
ADHDには、非常にハードモードな世界です。
ルールを知らされていないゲームに参加させられて、よく分からないままペナルティをとられているような気持ちになります。
しかも長年そういう世界で生きてきたので、他人と自分でこういうズレがあるということさえ思いつきませんでした。
ADHDと診断をうけ、いろいろ調べていくうちに、他人と自分の認知が違うことに気づきました。
「なぜADHDがコミュニケーションでミスを起こしてしまうのか?」の答えは、
「他人よりも感情が薄いから」というのがアミメなりの見解です。
「私は違うぞ」というADHDの方もいるかもしれません。
あくまで「アミメの場合は」ということで。
不注意優勢型ADHDってどんな感じかというと、思考につっかかりがない感覚
こんにちは、不注意優勢型ADHDのアミメです。
今回はADHDってどんな感じなのか、健常者の方にも分かりやすく伝えます。
ただこちらは私の感覚なので、他のみなさんはどうなのか分かりません。
ADHDといえば、ガス欠の車やスピードを出しすぎるスポーツカーなどと例えられますが、当事者としてはちょっと違うなという感じがします。
確かに「分かる」という感覚でもあるんですが、ガス欠の車やスポーツカーだからといって、衝動的に動いたりケアレスミスする理由はないんですよね。
だからこれはADHDの例えとしてはいまいちなのかもしれない、と思っています。
「じゃあ、実際のADHDの感覚ってどういうものなの?」というと、「思考につっかかりがない感じ」です。
健常者の方の思考が原っぱだったら、ADHDの思考は草もあまりはえていない荒涼とした大地です。
健常者の原っぱには時折花が咲いていたり湖があったりしますが、ADHDの荒涼とした大地は時折石ころが転がっているだけです。
「何言ってるんだ?」と思うでしょ。私も何を言っているのか分からなくなりました。
何がいいたいかというと、ADHDは認知からの発想が苦手なんです。
たとえば道を歩いていて、向かい側からガムを噛んでいて、サングラスをかけていて、刺青をガンガンに彫っているゴツイ人が、オラつきながら歩いてきたとき。
一般の方は、(あんなに周囲を威嚇して歩いてる。もしかしたら絡まれるかもしれない)と思って、できる限り視界に入らないように歩くことが多いでしょう。
だけどADHDはそういうことに気がつかない。サングラスをかけていてオラつきながら歩いていてきている人がいるのは理解はしている。だけど理解はしていても、「絡まれるかもしれない危険!」という思考には発展しないんです。
もしかしたら失敗するかも、危ない目にあうかもという物事が目の前に現れたとき、健常者の方は、危険を感じて止まることができます。
何かを視認する→予感を感じる→危険だ!という思考ができる。
この思考の発展がADHDには難しい。
何かを視認する→珍しいことだが、絶対ないとはいえないだろうとスルー→トラブルに巻き込まれるor大きなミスに発展する
このパターンが非常に多いです
あくまでADHDの私から見た感想なのですが、健常者の方って、自分にかかわることにすごく敏感なんですよね
緑豊かな原っぱで暮らしていて、美しい花に喜び、肉食獣がいる湖には近づかないことで身を守っているように見えます。
対してADHDは緑すくない荒涼とした大地で、周囲に気をひくものがあまりない世界です。危険な毒蛇や毒のある虫は、大地に完全に擬態して目立ちません。
だからこそちょっとでも珍しいものを見るとスポーツカーのように飛んで行ってしまいます。
そして「珍しいものを見つけた」と飛んでいった先で、擬態した毒蛇をうっかり踏んでしまうというのが、ADHDです。
例えで出していてあれですが、怖い人が歩いてきても気にしないかどうかはADHDの症状によって異なります。ADHD全員が、怖い人に率先して近づくタイプではありません。
あくまで分かりやすい例としてだしたのであって、厳密にはADHDの症状とはちょっとズレています。
またサングラスをかけてオラついて歩いていても、実は気のいいひとというのもたくさんいます。第一印象で決めつけず、分け隔てなく話せるのも、ある意味ではADHDの長所ではあるんでしょうね。
ちなみにアミメは、ケアレスミスは多いうえに、先入観で人を決めつけがちの、どっちつかずの中途半端なタイプのADHDです。
話は戻りますが、認知ってかなりホルモンに依存している気がします。
専門家ではない人間の適当な意見なのですが、岩を見て、危険だと思えるのは、ホルモンが関係していると思うんですよね。
ドーパミンが受け取りそこねるADHDは、岩を見ても、それは岩としか見れない。
しかし健常者は岩を見ると、危険を知らせるホルモンが分泌される、不安を感じよく注目すると、岩は高い崖の上にあり、すこしの衝撃でこちらに転がってそうなことに気づける。
ADHDは、そういう思考のつっかかりがひどく少ないタイプです。
そのため日常生活をおくるために、注意深くつっかかりを探します。頑張ればつっかかりは見つけられるので、しようと思えば健常者と同じような生活をおくれます。
ただしそれは頑張りのうえにあることなので、非常に疲れる。
効率が落ちるし成果もあげにくい。
さらに疲れがとりきれていないとき、思考がまともに働かないときなど、つっかかりを見過ごし失敗してしまう。
ADHDは思考のつっかかりが少ない障害。
個人的にかなり適確な表現だと思うのですが、どうでしょうか。
自分がADHDであることが発覚してから、「運動できない芸人」のかっこよさに気づいた
※この記事は「運動できない芸人」が発達障害だと決めつける記事ではありません。文中でたびたび説明をしていますが、誤解がないように、冒頭でも注意書きをしておきます。
テレビは見ない私だが、アメトーークは好きだ。
もともと、人が好きなものを語り合うのを聞くのが好きなのもある。
話がうまい芸人さんが、自分の知らない世界の面白さを語ってくれるというのも魅力だと思う。
過去の私は、「運動できない芸人」を見て、ゲラゲラ笑っていた。
しかし、自分がADHDだと発覚してから、心の底から笑えなくなった。
発達障害は、つまり脳が健常者と違う動きをするということだ。
厳密には、ドーパミンを受けとりそこねるといったほうが正しい言いかただ。
健常者と同じように暮らすうえでドーパミンが足りないという点は同じなので、雑な言い方ですませる。
発達障害にはさまざまなタイプがある。
運動が苦手なのも、極端に不器用なのも、発達障害の症状としてある。
発達性協調運動障害、DCDともよばれる症状だ。
専門家でもないので語るのも恐縮なのだが、やはりそれにも脳は関係する。
一説によると、走るのが苦手だったりする発達障害は、体の連動をささえるホルモンがうまく動かないらしい。
右手をあげながら左足をあげる、左手をあげながら右足をあげる、それらを素早く交互に行うというのは、緻密な脳の働きがあるがゆえに可能なことなのである。
そういった視点でみると、「運動できない芸人」を笑えなくなる。
彼らは単純に、運動ができる人の動きをまねしようとして、失敗しているというだけの話なのである。
念のため書いておくが、運動できない芸人が、発達障害だというわけでもない。
運動できない原因が、すべて発達障害に起因するわけではない。
なかには単純に体の動かし方が分からないという人もいる。
そして運動ができない人全員は、絶対にスポーツができないというわけでもない。
運動が苦手な人のなかには、これだけはできるというスポーツを極めて活躍する人もいる。
だからこそ「運動できない芸人」は、本当に運動ができないのだろうか、と思っています。
たとえばよき指導者に恵まれて、その人のあったスピードで成長を促してあげたら、もっとうまく体を動かせるようになったかもしれない、という考えを捨てられない。
そう思ってしまうほど、現代の体育の授業は多様性がない。
運動が苦手な人への救済処置がなく、ひたすらに苦手な人を置いていくような教育システムだ。
こういうことをうだうだと考えると、「運動できない芸人」は、「現代教育の敗北」として見えてしまう。
「運動できない芸人」はかっこいい
誤解がないように語るが、「運動できない芸人」が笑いにくくなったのは私の勝手だ。
「運動できない芸人」を笑うな、と主張することもしない。
彼らの芸人という生き方に敬意をしめすのであれば、ソレはソレ、コレはコレ、と割りきって笑うのが正しいのだろう。
つまり斜めにかまえて好き勝手に語っている私こそが、彼らを最もないがしろにしている人間というわけである。
「運動できない芸人」はかっこいい。
たぶん彼らは本当に運動が苦手だと同時に、笑ってもらうために、わざと体を大きく動かして失敗している。
もし運動ができないことを恥ずかしいと思っているのなら、おかしく見えないように小さく失敗する。
彼らは、自分がかっこ悪くみえることを承知で、人を笑わしている。
テレビの彼らの動きは、「運動ができない自分」を完全に受けいれたことを意味する。
弱点を強みにかえる、そこまでいかずともふっきれるというのは、発達障害者にとても必要な視点だと思う。
かっこ悪くても人に与えようとできる人は、かっこいい。
ADHDの私が受け入れないといけない事実
本当はもう少し早めに次の仕事探さないといけないな、と思いつつコロナの影響もあり、なかなか求職活動に踏み出せなかったアミメです。
今回は大学生のころの私に伝えたい、仕事を探すのならこの受け入れるべき事実を、自戒をこめて語ります。
ADHDの私が受け入れがたい事実①
大多数の日本人に、あなたは受けいれられることはない
好奇心を重視し、改革を好むあなたは、保守的な人には受け入れがたいです。
警戒感なく近づき、手ひどく痛めつけられるということは、これまで何度もあったでしょう。
残念ながら、あなたは多くの人に好かれるタイプではない。
だからといってあなたを好きでいてくれる人がゼロというわけではない。
味方や友達を求めるのなら、他の人と比べて、戦略的に行動をしなければいけないというだけの話です。
そして多少傷ついてもへこたれない、ちょっとの覚悟を持ちましょう。
多少の傷は、人生のスパイスだと楽しめるぐらいの余裕があると上出来です。
しかしあなたの先入観無く相手にかかわれるという面は、短所であり長所です。
大切なのは、裏切ってきた相手の負の面も受け入れる度量を持つこと。
それでも分かりあえない相手がいるということ。
ときには戦わなければいけない場面があるということ。
それらすべてに、あらかじめ用意をしておくことができるということ。
開放的なあなただからこそ、あなたにしかできない人とのかかわりかたがあると思います。
もう保守的な人と同じふりをするのはやめなさい。
ADHDの私が受け入れがたい事実②
あなたは、自分のしたいことにしか本気になれない
残念ながら、あなたは自分のしたいことにしか本気になれません。
仕事をしていても、頭のどこかで、物語を空想しているでしょう。
ただでさえ他の人よりも仕事ができないのに、そういうことを考えてしまうと、さらに仕事が遅くなります。
まずは給与が安くてもいいので、「残業がなく空き時間もある」かつ「自分が無理せずできる」仕事を探しなさい。
そして社会に必要とされるよう、スキルを高めなさい。
そのスキルと自分のしたいことを組み合わせて、企業にアピールするようにしましょう。
もしかしたら大失敗するかもしれません。でもADHDの私が、健常者と同じようにお金を稼ぐにはそれしかありません。
自分の道は、自分で作る覚悟を持ちなさい。
ADHDの私が受け入れがたい事実③
スキルをあげるためにたくさんの教育サービスはあるが、そのほとんどはあなたに合わない
学校に通っていて気づいたでしょうが、あなたには一般の勉強が肌にはあいません。
高校も大学もなんとか卒業しましたが、つらくてしかたなかったでしょう。
あなたは自分に合った効率的な勉強方法を、自分で編みだしていかなければなりません。
当然、「仕事のあっ旋」など教育サービスに付属するメリットも捨てることになります。
それらのメリットを、自分で獲得する方法も探さなければなりません。
でもあなた、そういうこと考えるの好きでしょう?
ADHDの私が受け入れがたい事実④
エージェントサービスなど就職を助けるサービスもたくさんあるが、そのほとんどはあなたに合わない
同じようにエージェントサービスなどの就職サービスの多くもあなたの肌に合いません。
一般的にみて、社会的なあなたの価値はゴミです。
エージェントも、ゴミとしてあなたを判断し、微妙な職場しか紹介してくれません。
そもそもエージェントは、企業から紹介料をもらうのが仕事ですから、あなたのことを本当に考えて動いてくれるわけではありません。
自分が働く企業は、自分で探すように習慣づけましょう。
ADHDの私が受け入れがたい事実⑤
周囲のアドバイスのほとんどは、役に立たない。自分の人生は、自分で決めて戦うしかない
周囲の人は、分かったようにあなたにアドバイスをします。当然そのほとんどは、役に立ちません。
30歳の私は、これまで様々なアドバイスに従い活動していましたが、そのすべてに失敗しました。
周囲の人で一人も、私がADHDだと気づいてくれる人はいませんでした。
結局、違和感を解明しようと病院に受診した私が一番正しかったです。
(私の健常者への擬態がうますぎた、と誇るべきところなのかもしれません)
アドバイスというものは、多くの場合、その人の人生経験から導き出されたものです。
多くの人とズレている私には、それらのアドバイスは参考になりません。
どうしても気になることをいわれたのなら、そのアドバイスはいったん家に持ち帰りましょう。
どの程度信ぴょう性があるのか、データを集めて、客観的に判断するとよいでしょう。
こちらを思っての言葉だとしても、盲目的に信じてはいけません。
ADHDの私が受け入れがたい事実⑥
王道を外れた道を率先して歩まなければならない
人と違うあなたは、人と違う道を歩まなければなりません。
人と同じ道を歩いても待っているのは、失敗の連続とその人よりも劣る結果です。
欲しいものを明確にして、自分なりの獲得方法を模索しましょう。
最後に、私は無職のニートです。
だから上記の内容も、おそらくこうだろうという憶測で語っているところも多いです。
偉そうに語っていましたが、これらすべてが合っているのか正直分かりません。
もしかしたら40歳の私から、これらに反論する連絡がくるかもしれません。
どちらにせよ30歳の私からのこの連絡も、40歳の私からの連絡も、信じすぎないように注意してください。
あなたの道はあなたが決めなさい。
正論なんてクソくらえ。あの人の意見に耳をかさなくていい理由。
タイトルから勘違いされそうですが、アミメはどちらかといえば、感情よりも論理を重視する人間です。
ただ論理を重視しても、人間関係では別にいいことってないんですよね。
反論の隙なく言いかえしたら悪者扱いされるし。
黙っていたら、どこから反論すればいいのか、頭を抱えたくなるほどむちゃくちゃな意見を聞かせられるし。
とりあえず相手の意見は置いといて、追求したい点だけ追求したら、負けセリフはかれて逃げられるし。
これだけ痛い目にあっているのに、「自分は感情的になってはいけない、論理的でなければいけない」と思いこんでいました。
ただ最近、心理学やコミュニケーションについて調べて、この考えがひっくり返りました。
私も含めて、ぜんぜんみんな論理的じゃない。ただ論理的な「フリ」をしているだけった。
他人の意見を聞いたとき、理屈っぽい私はまず「それが論理的に正しいか正しくないか」を考えていました。
そう考えてしまうと、どうしたって穴に気づいてしまうんですよね。
そして「こんな非論理的な意見をいうなんて、なんて頭が悪い人なんだろう」って、相手を心のなかで非難してしまうんです。
だから私はまず、その意見が「正しいか正しくないか」ではなく「聞く価値」があるのか考えることにしました。
くわしくいうと、以下の6点に当てはまったら、もう「聞く価値」がない意見と判断し、深く考えずに聞き流すようにしています。
なにかしらの要求であれば、深く考えずに、こちらの事情を説明してことわるようにしています。
1、具体的指示がない。
例:「私、あなたのその服装きらーい」
なぜ嫌いなのか、なぜわざわざ口に出したのか説明がない。
また改善するための、具体的な指示がない。
2、意見に従うことでうまれる損失に目を向けていない。
例:「私、カーディガン恐怖症で、悪いけど仕事する間はジャケット着てもらっていい?」
着るものを自分だけ制限される精神的負担や、ジャケットを買うことでうまれる損失に目を向けていない。カーディガン恐怖症って、自分で書いててなに?って思った。
3、論理や正論でまるめこもうとする。
例:「仕事なんだから、これぐらい我慢しなさいよ」
例:「普通はそうでしょ」
論理は、意見のすり合わせをし、双方の思考や関係性を次の段階にすすませるために活用するもの。相手をねじ伏せるためのものではない。
4、こちらの意見を聞いたら怒り出す。否定する。そもそも聞かない。
相手に話しあいたいという意思があっても、その技術と度量が足りてない。
話しあっても、あまりよい終わり方は期待できない。
そして何より大切なのは、この2つです。
1つ目は、「自分に他人の意見を聞く余裕があること」。
2つ目は、「自分は、相手とどのような関係性を目指すかということ」。
該当する意見を突きつけられたら、脳が認識する前に、対処しましょう。
真面目に考えてはいけません。無責任なその意見は「呪い」となり、頭の中でリピートされ続けます。
自己啓発本とかビジネス書なんかには、納得できない意見でも聞けとか、耳に痛い意見でも取りいれろとか書かれていることもありますが。
ネットで他者の意見にさらされ続ける時代。
ある程度自分の安寧を守りつつ、心地よい人間関係を構築するのなら、これぐらい厳しく取捨選択してもよいと思います。
自分をさらけ出さないと幸せになれないらしい。そうだ、ブログを書こう
幸せには2つの条件があるらしい。
1つ目は、「不便に感じない程度の生活をおくれるお金があること」。
2つ目は、「自分は必要とされている、そのままの自分を受け入れられてもらえているという人間関係を構築すること」。
そしてどちらも持っていないのが、現在ADHD(不注意傾向)でニート三十路の女の「私」です。
無職期間4年。
こうして書いてみると、自分の現状のひどさが分かります。
話が横道にそれたので、戻りましょう。
お金については、仕事を見つければなんとかなります。
(それが大変だというつっこみはしません)
そこそこ小説や映画が見れて図書館で調べものができれば満足というタイプなので、質素でも暮らしていけると思います。(いけるといいな)
問題は人間関係のほう。そもそも人に興味がないんです。
厳密にいうと、「人と興味をもつポイントが違いすぎて話があわない」。
俳優さんをみても、ときめくとかよく分からないです。
どちらかというと、どうしてこの顔が整ってみえるのか、脳はどう処理しているのか気になって調べたくなるタイプ。
アイドルのコンサートとかみても、どういう意図でこのライトの色を選んだのか、などが気になるタイプです。
なので、多くの女性と話があわない。
興味のポイントが違うことは分かっているから、そつなく会話する技術はあるんです。
相手を否定せず、相手の考えに興味を持って話を聞くっていうことはできるんです。
(たまに意識が宇宙に飛ぶけど)
ただそれができても、こっちが楽しくない。
「相手は理解してもらえた」って満足するかもしれないけど、私は楽しくない。
会話って「双方が互いを理解しながら話さないと楽しくない」ということに、三十路にして気がついた。
人に興味を持つために私がたてた目標は、「人と楽しく会話をすること」。
そのためには以下の2つが必要。
1、自分と同じ価値観の人を探す
2、自分の興味がもっていることを、相手が楽しめるように話せるようになる
1にしても2にしても、自分をオープンにしなきゃ達成できない。
ということで、まずはブログで、自分を語る練習をしたいと思います。
つまり、このブログは自己満足の自分語りが中心になります。
好きなものの嫌いなものも、言葉は選びますが正直に語ります。
見た人によっては、ムカつくと思われたりするだろうなということも書きます。
はぁー、胃がきゅーってなる。
もう正直、冒頭の「ニート三十路女」ということを明かすだけでも、テンションが下がる。
今まで自分を抑えて失敗してきたんだから、別方面からアプローチをするしかないんだよなー。
というわけで、後ろ向きのまま前にすすもうとしている人間のブログですが、よろしくお願いします。